中西さとしについて〈戦艦「大和」への想い〉

 

◆「100の質問」欄でも書きましたが、学生時代に吉田満氏の「戦艦大和ノ最後」を読み、その文語調の文体と迫力に強い感銘を受けました。
昭和18年秋以降、飛行機や人間魚雷「回天」、モーターボート「震洋」による「特攻」はありましたが、艦隊による「特攻」は初めてであり、その渦中の将兵達が何を考えて自分自身を納得させたかが良くわかる本であります。

◆大東亜戦争で行われた「特攻」による戦死者は陸・海軍合わせて合計9,564名。(読売新聞資料)
その内、航空機によるもの3,858名、特殊潜航艇436名、「回天」104名、「震洋」1,082名、陸軍海上挺身隊(小型突撃艇)266名等となっています。

◆これらに対して、伊藤整一中将率いる第2艦隊の「水上特攻」では「戦艦大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「磯風」、「浜風」、「朝霜」、「霞」の六隻が沈没、駆逐艦「冬月」、「涼月」、「雪風」、「初霜」は生還しましたが戦死者3,721名を出しています。

◆これは余談ですが、日本側で撮った「戦艦大和」の写真は残っている物がわずかで、皆さんが普通に「戦艦大和」として見ている写真はいずれも昭和16年10月から11月にかけて宿毛湾の鵜来島・沖ノ島間の標柱間で公試運転中に撮られた写真です。
(以下の写真を含めて4枚ほどあります。) 
この時に、最大速力27.3ノットを記録しました。